23年前の今日、阪神・淡路大震災が発生しました。
わたしには思い出されることがあります。
1.仕事で出張
当時わたしは東京にいました。
人事部で福利厚生の仕事をしていましたが、住居の被害を受けた社員のサポートをするため、特別の制度を作りました。
そして、その説明や手続などのため、3月に上司とともに現地にはいりました。
震災から2ヵ月後でしたが、もちろん復興はまだまだ。
ひとつの電車で移動できる区間が、途中が不通になっているので別の電車に乗り換えなければならない。
建物も被害を受けたまま。
「水が出ます。どうぞ使ってください」
といった貼り紙が貼られた蛇口があるなどという状況です。
2.ビデオで撮影しようと
高層ビルが途中からポキンと折れている、神戸市役所の古い方の建物は、3階(だったかな→6階の誤りでした。下の写真参照)のフロアが上下のフロアから押しつぶされている等など、この世とは思えない光景。
一見被害を受けなかったと思われるビルが、隣のビルと比較するとなんかヘン。隣のビルと比較すると、どちらかのビルがビル全体が傾いている。本来であれば両方のビルは地面からビルの最上階まで等間隔で建っているべきところそうじゃない。間隔が上空に行くにつれて離れている。
そのような様子がそこかしこに。
東京に戻ってくると、その傾いたビルの光景が脳の奥底にこびりついているのか、まともに建っているビルでさえもゆらいでみえる。めまいがするんです。
くらくらしてきます。
思えば、わたしのひどいめまいの持病のきっかけはアレだったのかな。
3.「来るな」「いや、ぜひわたしたちを見に来てください」
震災直後は、見物に来るな、という論調でした。
被害を受けた人々の心情を考えると、たとえマスコミの取材でさえも、さらには一般人が現地を訪れるのも「来るな」「被害者のことを考えろ」でした。
わたしが仕事で訪問したときも、そんな感じでした。
ですので、わたしは被害の様子を映像で残したいとビデオカメラを持参していましたが、撮るべきではない、ということで撮れませんでした。
が、しばらくすると、むしろ「ぜひ、わたしたちを見に来てください」「被害の様子を拡散してください」と変わっていきます。
被害は国民で共有する必要がある、後世に伝えるためにも、ありのままの被害を残す。
また、現地に訪問することで、言葉は適切じゃないけどお金が現地に落ちる。それが復興をうながす原資にもなる。
そんな時代の変遷のときでした。
4.上司が亡くなる
当時、仕事で現地に足を運んだ上司。
わたしの会社員人生の中で一番好きだった彼。
彼は、昨年若くして亡くなりました。
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病気の話を少しも聞いたことがなかったので、亡くなったのがウソと思え、しばらく受入れられず。
ずっとガンで病んでいた父が亡くなったときは覚悟し、落ち着いて受け入れましたが、その上司はそうではなかった。ワンワン泣きました。
毎年、1月17日は、悲惨だった神戸の光景と、大好きだった上司の記憶を思い出す日になりそうです。