8月28日から翌29日にかけて放送された24時間テレビ「愛は地球を救う」。
あの番組は、毎年なんらかの物議を醸しますねえ。
放送される前、そして終わった後も、いろんな人がいろんなことを言います。すでに多くのブロガーさんも投稿されていると思います。
わたしがこんなタイミングで投稿して、どんだけみなさんのお役に立てるかわかりませんが、書いてみたいと思います。
タイトルの「政治みたいに思った」話は最後の方に出てきます。
0.前提
まずわたしは、24時間テレビのウォッチャー(毎年チェックしている、長時間見ている)ではありません。また、テレビそのもののウォッチャーでもありません。
そんな中、24時間テレビは、どちらかといえば見たいと思わない番組です。
でも子どもが見たがり、またこの季節、クーラーをかけている部屋がリビングしかない我が家ではそこにいないと過ごせない、つまりは見たくないけど見ざるを得ない状況にある、ということだけあらかじめご認識ください。
今年の放送について見たのは、土曜日のオープニング(マラソンランナーが発表されるまで)、日曜日の午前の一部、笑点前あたりから終了までです。
それと、書いている事象などの情報が正確かどうかをしっかりと確認していないので、その点もあらかじめご容赦ください。
1.感想
(1)障害者色が薄かった
まず、今回の放送の感想は、障害者色が薄かったですなぁ。
前回だったか前々回だったか、障害者にダンスさせて批判を受けたからなのか、NHKのバリバラから批判されたからなのか理由はわかりませんが、障害者が登場するという印象が以前より薄かった感じがします。
わたし自身、そもそも、この番組はなぜ障害者を出演させるのか疑問でした。
愛が救うべき地球は障害者だけじゃない。
そもそも、障害者に少々無理なことに挑戦させる意義があるのかどうか。
障害者に関する法律はいろいろあり、また新たに生まれるものもある。昔の法律も改正されていく。
障害者については、昔は
健常者とは違うのだから、その違いを明確にし、障害者にも対応しなければならない
といった考え方から、
障害を持つことは人の個性のひとつであり、障害者も健常者もともに普通に生きる社会をつくる
という考え方に変わってきているはず。(排除・隔離から統合、インクルージョンへ。言葉・説明が間違っていたらごめんなさい)
だから、障害者が頑張らなければならないのではなく、障害者が頑張らなくても生きていける社会じゃなきゃいけない。
テレビの映像をもとに具体的に説明しますと、義足の人が山を登る挑戦をしていましたが、あの人だけが頑張らなければならないのではなく、義足の人、脚が不自由な人でも登れる環境づくりみたいなことが、どちらかといえば必要だということを訴えるのではないでしょうか。
障害者になにかを押し付ける感じが強かった24時間テレビ。
それが、ゼロになったわけではなく、これまでより薄かった感じはしました。
※蛇足:わたしの障害者雇用に対するイメージ
蛇足ですけど、多くの健常者と違って(多分ですけど)、わたしの障害者(ここでは、働く場における身体障害者と思ってください)に対する思いは
「障害者自身が自分で考え、自分で行動を変えていく必要がある(場合が少なくない)」
というものです。
聴覚障害の人がおられたら、手話や要約筆記(講演など、口頭で語られた内容を要約して書き留めるのを見ることで伝える)で周囲がサポートする、と考えるのが普通だと思います。
普通だし、これでいいのですが、一方で、障害のサポート以外について「自分は優遇される」と思い込んでいる人が少なくない、ということを経験してきました。
あまり具体的なことは書けないので、例として書きますと、
わたしは聴覚に障害があるから遅刻してもいい
わたしは●●の障害があるから就業規則を違反してもいい
といったことです。
障害の内容や程度によっては致し方ない、と判断せざるをえない場合はあると思います。そういったときに、遅刻もやむなし(時差出勤を認める)とか、就業規則どおりにいかない運用を考えるとか出てきます。
が、そうでもない状況において、障害者であれば何でも許される、と思い込んでいる人がわたしが見聞する範囲に少なからずいたということです。
この話を詳しく書くと24時間テレビから離れていきますので、ここで止めます。
(2)募金とギャラ
募金と、出演するタレントのギャラについては、近年ずっと繰り返される批判です。
募金を集めているのに、タレントには高額のギャラを支払っている、それに何の意味があるのか、という話。
テレビ局側は支払っていないと否定はしていないようですし、タレントたちも「もらっていない」とはだれも言ってないようなので、ギャラが支払われているのは事実でしょう。
番組の最後のほうで、これまでに寄せられた募金総額は1億数百万円と発表していたと記憶してます。
これくらいの金額なんて、ギャラや制作費でいっきに飛んでしまう金額じゃないでしょうかね。
どんだけのお金をかけて1億という募金を得ようということなのか、それともその日の募金額どうのこうのではなくて、番組は「愛が地球を救う」というメッセージを出し続け、それに呼応する様々な取り組みを積算するとギャラや制作費を超えてしまうから番組をやる意味があるのか。
それと、募金をどんだけ正確にカウントしているんでしょうか。
ビンや缶にはいった小銭はカウンターとかタレントの後ろに置いたままになっているものが少なくないのですが、あれもカウントされてるんでしょうか。昔から疑問です。
(3)マラソン
ブルゾンちえみが走ったマラソン。
今年ほど、その存在の意味があるのか問われたこともないと感じました。
当日発表、「走る意味がある人」「走りたい人」が走る、という、ばたくさい演出。
わたしが最も違和感を感じたのは、
「沿道の皆様、ランナーや歩行者、周囲の交通に影響がありますので、走っている場所ではなく、テレビとかから応援を」
という内容のことをフリーアナウンサーがテレビから視聴者に呼びかける、このシーン。
これを聞くと「じゃあ、走るのになんの意味があるのか?」と思わざるをえないです。
近くから応援させろ、と言っているのではありません。そこまで周囲に影響・迷惑がかかるタレントによるマラソンというのを、そもそもやらせる意味があるのかってことです。タレント自身も身体を痛めますし。
まあ、タレントにとっては知名度を上げる、国民的名声を得るとかの効果はあるとは思いますが。
2.24時間テレビは政治
寄付額が発表されますね、放送の最後の方で。
それよりもはるかに高額のギャラが出演タレントたちに支払われるらしいです。
これって、税金(募金)を徴収する割には議員報酬の減額や議員定数削減をしない、という社会にそっくりな感じがしました。
また、走り終わった後のブルゾンちえみ。
お笑いタレントの走り終わったあとのコメントが、当選した後の政治家のそれにそっくりと感じました。
具体的にどんな話をしたのかははっきり覚えてません。でも、自分を支えてくれた人たちへの感謝みたいなことだったと思います。
感謝するのは大事だし、なにも間違っていないのですが、彼女がしゃべりだした途端、テレビの向こうの空気がすっと変わった感じがしたんですよね。それほどに、ブルゾンちえみのおしゃべりがクイッと、なんかの拍子に変わっちゃって、国会議員のそれとそっくりだった。気持ち悪いほどに。
3.せっかくのラストが最も政治
ずっと批判し続けたこの番組も、唯一「なかなかやん」と思ったシーンがあります。
最後の最後。
日本テレビが世界で最も高い山、エベレスト(チョモランマ)から世界で初めてテレビの生中継をしたという話。
プロデューサー岩下莞爾さんとカメラマン中村進さんが紹介されてました。壮絶な戦いだったみたいです。エベレスト頂上からの生中継の映像を、という話。
一度は失敗したエベレスト登頂。二度目か三度目に登頂、そして撮影に成功した中村進さん。それを支えていた岩下莞爾さん。
次は「南極点からの中継を」との野望を持っていた岩下さん。でも叶わず、帰らぬ人に。
岩下さんの遺骨を持って歩き、南極点に到達した中村さん。
その中村さんも、ヒマラヤでの雪崩で亡くなったという話。
その岩下莞爾さんが残したらしきメッセージ。
存在するものを存在すると伝えよ
存在しないものは存在しないと伝えよ
存在するものを無いと言うな
存在しないものを有ると言うな
雑に言うと、そんな内容だったと思います。
んー、このメッセージをいまどきの政治家に聞かせてあげたいもんだ、と思いましたよ。
あるものを無いと言って出世した佐川国税庁長官(今や、“元国税庁長官”になりました)。
無い(らしき)ものを「こんなのがある」とテレビカメラに見せて、「あいつはおかしなことを言っている」と言いながらも今は雲隠れしてる下村博文さん。
などなど、枚挙にいとまがなんとかって話。
募金よりも、ブルゾンちえみよりも、24時間テレビって政治だなあ、と思った時間でしたよ。
さらに、岩下さんのメッセージは、メディア自身、つまりは日本テレビ、読売新聞。
さらには他のメディアにも向けた自省のメッセージだと思いたいものです。
- 作者: 岩下莞爾
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